ホーム  >  陸奥の会リーダーのつぶやき(NO8) 八八艦隊、海軍軍縮、陸奥、そして「国 威顕彰の碑」

  陸奥の会リーダーのつぶやき(NO8) 八八艦隊、海軍軍縮、陸奥、そして「国 威顕彰の碑」

8.jpg皆様、ヴェルニー公園の端に寂しく佇む「国威顕彰の碑」を知っておられますか。日露戦争後、横須賀海軍工廠では薩摩や河内という世界最大の戦艦を建造し、世界中を驚かせました。しかし第一次世界大戦(1914~1918)での超弩級戦艦の海戦を見聞きすると、ここまで建造した軍艦が時代遅れであることに海軍はショックを受けます。大戦後の経済の好転もあって、海軍は新たに戦艦8隻、巡洋戦艦8隻で艦年齢も8年以内の艦隊を計画します。これが所謂八八艦隊計画と呼ばれたものです。
海上自衛隊においても護衛艦部隊の編成で8艦8機体制という言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、これは一個戦術単位である、護衛隊群を護衛艦8隻、ヘリコプター8機をもって構成する考え方であり、海軍の八八艦隊構想をもじって、8・8艦隊と言ったりすることもありますが、とかく「海の防人」は「八」が好きなようです。
話を戻します。この計画の中心が長門型戦艦であり、2隻建造することになり1番艦の長門は呉で建造、2番艦にあたる陸奥は、横須賀で当時の日本の造船技術の粋を結集して建造されることになったわけです。
ところが第一次世界大戦後に訪れた「海軍軍縮」の波、米、英、日の戦艦の保有比率を決めた「ワシントン海軍軍縮会議」において未完成との指摘をうけ廃棄寸前となりますが、日本側は完成時期を早め、完成していると主張、「陸奥」はなんとかその命を繋ぎ止めます。しかし、ここに至り海軍は八八艦隊計画を諦めざるを得なくなるわけです。実際には海軍軍縮という制約はありましたが、日本の当時の経済力の実体からも本計画の遂行は無理であったような気がします。
その後、昭和11年(1936)無条約状態に入った海軍は、その翌年から大和、武蔵、信濃と建造していくわけです。大和は呉で、武蔵は長崎で、信濃は戦艦から航空母艦に改装され、横須賀で建造されますが、不幸にも横須賀から呉に回航中に米国潜水艦に撃沈されます。
同じ時期の昭和12年、これからは海軍軍縮という国際条約の制約なしに自由に艦船を建造できると海軍は士気を鼓舞する意味から、横須賀海軍工廠内(現在のヴェルニー公園)に「国威顕彰の碑」を建てます。当時の資料からは塔の上には八咫烏(神武天皇東征の時に現れた伝説のカラスで、日本のサッカーのエンブレムにもなっています)が翻っていましたが、現在は石像でできた戦艦の艦橋部分しか残っていません。周りにはレリーフが飾られていたと思われますが、多分戦後のドサクサで失われたのでしょう。
陸奥主砲がヴェルニー公園に里帰りした暁には、公園のバラを楽しみながら、海軍の歴史の「光と影」を感じていただければとも思っています。

陸奥の主砲を80年ぶりに横須賀に里帰りを目指します。