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陸奥の会リーダーのつぶやき(NO4)陸奥と横須賀の関わり
戦艦「陸奥」が横須賀海軍工廠で進水したのは大正9年5月31日です。その時の写真です。
横須賀に馴染みのある若干年配の方には懐かしいガントリー・クレーンが写っています。当然今は廃棄されていますが、現在のショッパーズプラザ付近にあったと思います。私が小さいころ、父母に手を引かれ左手に赤くさびたクレーンを見ながら、米兵で賑わうドブ板通りを通って横須賀中央に買い物に行った、なにかほろ苦い、懐かしい思い出がよみがえってきます。
江戸末期の1865(慶応元)年、小栗上野介とフランスの技師ヴェルニーによって造られた横須賀製鉄所は日本近代化の先駆けとなります。
明治になって横須賀造船所となり、その後日露戦争が始まる前の1903(明治36)年に横須賀海軍工廠となります。1905(明治38)年日本海海戦を大勝利に導いた戦艦「三笠」を初めとする戦艦は、英国等の外国からの輸入に頼らざるを得ませんでした。それからわずか15年、日本は世界初の40センチ(実際には41センチありました)砲を搭載した戦艦を作る技術を築き上げたのです。それが1920(大正9)年に呉海軍工廠で建造された戦艦「長門」であり、翌年の1921(大正10)年に横須賀海軍工廠で建造された戦艦「陸奥」でした。
黒船で浦賀に上陸したペルリ提督は、『ペルリ提督日本遠征記』(岩波文庫全四巻)で次のように述べています。「日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう」と。
江戸時代、その職人の手先の器用さ、また識字率の高さ等、日本の近代化の萌芽はすでに存在していたのでしょう。そして見事に日本の近代化という果実を実らせた樹が横須賀であったとの思いを、強くする今日この頃です。
陸奥の主砲を80年ぶりに横須賀に里帰りを目指します。